善の研究:第三編 善:第十三章 完全なる善行
善の研究:第三編 善:第十三章 完全なる善行
善とは一言にていえば人格の実現である。これを内より見れば、真摯しんしなる要求の満足、即ち意識統一であって、その極は自他相忘れ、主客相没するという所に到らねばならぬ。外に現われたる事実として見れば、小は個人性の発展より、進んで人類一般の統一的発達に到ってその頂点に達するのである。この両様の見解よりしてなお一つ重要なる問題を説明せねばならぬ必要が起って来る。内に大なる満足を与うる者が必ずまた事実においても大なる善と称すべき者であろうか。即ち善に対する二様の解釈はいつでも一致するであろうかの問題である。
余は先ずかつて述べた実在の論より推論して、この両見解は決して相矛盾衝突することがないと断言する。元来現象に内外の区別はない、主観的意識というも客観的実在界というも、同一の現象を異なった方面より見たので、具体的にはただ一つの事実があるだけである。しばしばいったように世界は自己の意識統一に由りて成立するといってもよし、また自己は実在の或特殊なる小体系といってもよい。仏教の根本的思想であるように、自己と宇宙とは同一の根柢をもっている、否直ただちに同一物である。この故に我々は自己の心内において、知識では無限の真理として、感情では無限の美として、意志では無限の善として、皆実在無限の意義を感ずることができるのである。我々が実在を知るというのは、自己の外の物を知るのではない、自己自身を知るのである。実在の真善美は直に自己の真善美でなければならぬ。然らば何故にこの世の中に偽醜悪があるかの疑が起るであろう。深く考えて見れば世の中に絶対的真善美という者もなければ、絶対的偽醜悪という者もない。偽醜悪はいつも抽象的に物の一面を見て全豹ぜんぴょうを知らず、一方に偏して全体の統一に反する所に現われるのである(実在第五章においていったように、一面より見れば偽醜悪は実在成立に必要である、いわゆる対立的原理より生ずるのである)。 アウグスチヌスに従えば元来世の中に悪という者はない、神より造られたる自然は凡すべて善である、ただ本質の欠乏が悪である。また神は美しき詩の如くに対立を以て世界を飾った、影が画の美を増すが如く、もし達観する時は世界は罪を持ちながらに美である。
試こころみに善の事実と善の要求との衝突する場合を考えて見ると二つあるのである。一は或行為が事実としては善であるがその動機は善でないというのと、一は動機は善であるが事実としては善でないというのである。先ず第一の場合について考えて見ると、内面的動機が私利私欲であって、ただ外面的事実において善目的に合うているとしても、決してそれが人格実現を目的とする善行といわれまい。我々は時にかかる行為をも賞讃することがあるであろう。しかしそは決して道徳の点より見たのでなく、単に利益という点より見たのである。道徳の点より見れば、かかる行為はたとい愚であっても己おのれが至誠を尽した者に劣っている。或は一個人が己自身を潔いさぎようする一人の善行よりも、たとい純粋なる善動機より出でずとするも、多数の人を利する行為の方が勝まさっているというのでもあろう。しかし人を益するというにも色々の意味があって、単に物質上の利益を与うるというならば、その利益が善い目的に用いらるれば善となるが、悪い目的に用いらるればかえって悪を助けるようにもなる。またいわゆる世道人心を益するという真に道徳的裨益ひえきの意味でいうならば、その行為が内面的に真の善行でなかったならばそは単に善行を助くる手段であって、善行其者そのものではない、たとい小であっても真の善行其者とは比較はできないのである。次に第二の場合について考えて見よう。動機が善くとも、必ずしも事実上善とはいわれないことがある。個人の至誠と人類一般の最上の善とは衝突することがあるとはよく人のいう所である。しかしかくいう人は至誠という語を正当に解しておらぬと思う。もし至誠という語を真に精神全体の最深なる要求という意味に用いたならば、これらの人のいう所は殆ど事実でないと考える。我々の真摯なる要求は我々の作為したものではない、自然の事実である。真および美において人心の根本に一般的要素を含むように、善においても一般的要素を含んでおる。ファウストが人世について大煩悶の後、夜深く野の散歩より淋しき己おのが書斎にかえった時のように、夜静に心平たいらなるの時、自らこの感情が働いてくるのである(Goethe, Faust, Erster Teil, Studierzimmer)。我々と全く意識の根柢を異にせるものがあったならばとにかく、凡すべての人に共通なる理性を具した人間であるならば、必ず同一に考え同一に求めねばならぬと思う。勿論人類最大の要求が場合に由っては単に可能性に止まって、現実となって働かぬこともあるであろう、しかしかかる場合でも要求がないのではない、蔽われているのである、自己が真の自己を知らないのである。
右に述べたような理由に由って、我々の最深なる要求と最大の目的とは自ら一致するものであると考える。我々が内に自己を鍛錬して自己の真体に達すると共に、外自ら人類一味の愛を生じて最上の善目的に合うようになる、これを完全なる真の善行というのである。かくの如き完全なる善行は一方より見れば極めて難事のようであるが、また一方より見れば誰にもできなければならぬことである。道徳の事は自己の外にある者を求むるのではない、ただ自己にある者を見出すのである。世人は往々善の本質とその外殻とを混ずるから、何か世界的人類的事業でもしなければ最大の善でないように思っている。しかし事業の種類はその人の能力と境遇とに由って定まるもので、誰にも同一の事業はできない。しかし我々はいかに事業が異なっていても、同一の精神を以て働くことはできる。いかに小さい事業にしても、常に人類一味の愛情より働いている人は、偉大なる人類的人格を実現しつつある人といわねばならぬ。ラファエルの高尚優美なる性格は聖母においてもその最も適当なる実現の材料を得たかも知れぬが、ラファエルの性格は啻ただに聖母においてのみではなく、彼の描きし凡ての画において現われているのである。たといラファエルとミケランジェロと同一の画題を択えらんだにしても、ラファエルはラファエルの性格を現わしミケランジェロはミケランジェロの性格を現わすのである。美術や道徳の本体は精神にあって外界の事物にないのである。
終に臨んで一言して置く。善を学問的に説明すれば色々の説明はできるが、実地上真の善とはただ一つあるのみである、即ち真の自己を知るというに尽きて居る。我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きて居る。而しかして真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。而してこの力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽して一たびこの世の欲より死して後蘇よみがえるのである(マホメットがいったように天国は剣の影にある)。此かくの如くにして始めて真に主客合一の境に到ることができる。これが宗教道徳美術の極意である。基督教キリストきょうではこれを再生といい仏教ではこれを見性けんしょうという。昔ローマ法皇ベネディクト十一世がジョットーに画家として腕を示すべき作を見せよといってやったら、ジョットーはただ一円形を描いて与えたという話がある。我々は道徳上においてこのジョットーの一円形を得ねばならぬ。